
第26号(平成19年9月10日発行)より一部抜粋して掲載します。
【特集】話題の人 藤沢市長「山本 捷雄」
もう若い人に後を…
初めて政治にたずさわる人の登場です。うしお会としては「政治とは一線を画す」をモットーとしていたこともあり、初の国会議員となられた大石尚子さん(S30年卒第6回生)をも、あえて無視してきました。しかし、今回は藤沢市役所に勤める鎌高OBで組織する日坂会から「市長は次の選挙には出馬しないので、ぜひ現職のうちに…」と役員会に要望があったことで、その意を汲むことになりました。鎌高OB初の市長はどんな高校生だったのか、聞いてみました。
(聞き手 S32年卒 第8回生 佐伯松次朗)
―次回の選挙には出馬しないそうですね。何 か理由があってのことですか。
山本 一番の理由は体力的なことですね。
―まだ63歳。若い部類ではないですか。
山本 イヤイヤ。学生時代はズボラでさぼりっぱなしでしたけど、変なところで真面目な面もあって、市長になってからは無遅刻、無欠勤なので、少々疲れました。時代も変わっているし、いまは若い人の柔軟な頭が必要だと思っているんです。
―政治家になろうと思われたのは、何かキカ ッケがあったんですか。
山本 政治に関係している人が多い家系だったんです。子供の頃から選挙、選挙ですからね。それが嫌いだったんです。大学を卒業してから市役所に勤めていたんですが、友人達が「同級生の中に一人くらい市会議員がいてもいいだろう」というので「ならばやってみようか」と言うことになったんです。
―やはり血筋ですか。
山本 親類の選挙活動なども興味がなかったので、親のことも含めてほとんど選挙のことは見てませんでした。ですからほんの軽い気持ちだったんです。当時の市議選は1500票くらいで当選だったんですが、いざやってみると集票するのが如何に大変かということを痛感させられましたね。
―いま同窓会長の滝沢(茂男。S41年卒 第17 回生)さんも藤沢の市議でしたね。
山本 彼とは3期一緒にやりました。若くて優秀な議員でしたが、時代を先取りしすぎてましたね。今なら大変な実績を挙げられたでしょうけど…。
―鎌高に決められたのは何故ですか。
山本 決めるも何も、鎌高しかなかったんです。私の時代はアチーブメントテストで進む学校が決まったんです。鵠沼中学だったんですが、とにかく成績が悪くて、先生方からは「とてもじゃないが県立はむずかしい」と言われて、私立も受けたんですが、たまたま鎌高に引っ掛かったんです。
「鎌高でよかった」が実感
―入学してみて印象は如何でしたか。
山本 景色はいいし、ノンビリした校風。先生方もほとんど勉強しろと言わないので、よかったですね。一番うれしかったのは、定期券を持って電車で通ったことでした。小・中学は地元で、徒歩通学でしょう。だから定期での通学は大変うれしかったですね。
―どんな学生でした。
山本 正直にいって真面目な生徒ではなかったですね。
―何か部には入られたんですか。
山本 中学の時に卓球をやってましたので、一応卓球部に入ったんですよ。当時は荻村伊智烽ウんが世界チャンピオンになったりして、卓球がちょっとしたブームだったんで、入部者も多かったんです。どこの部でもそうでしょうが、一年生は球拾いばかりで、ほとんど練習させてもらえないじゃないですか。それにあまり上手くなれそうもなかったので、すぐにやめてしまいました。
―文化系の部にも属さなかったんですか。
山本 「少し落ち着かせるために茶道部に入れたらどうか」という先生がいて、その気になったんですが「あんな品の悪い奴はダメだ」と女生徒に断られてやめました。茶道部の女の子は同じクラスだったので、今でもクラス会で会うと「あのとき茶道部に入れてくれなかったので、こんな品の悪い人間のままでいる」と文句を言ってます。(笑い)そんな訳で、授業が終わると、サッサと帰って悪友たちと麻雀などで遊んでばかりいました。
―校長は城所(福之助)先生でしたか。
山本 入学した時はそうでしたが、卒業の時は末廣(令三)先生でした。
―鎌高の基をつくられたのは、城所校長だと いっても過言ではないですものね。
山本 親父が知り合いだったんです。城所先生は柳小路から乗られるんで、会わなきゃいいなと、いつも思ってました。
―二、三年時の担任が福井進先生(S30年卒・ 第6回生)ですね。
山本 ハイそうです。大学を出られてすぐでしたから、先生というより兄貴感覚でしたね。
福井進先生の話 部活などで目立った存在 ではなかったけど、気さくな生徒でしたね。 政治家一家であるとは知ってましたが、市 長になるとは思いませんでしたね。今でも 付き合いがありますが、よく頑張ってると 思います。
―他に印象に残ってる先生はおられますか。
山本 山中仁(野畑)先生ですかね。悪ガキの生徒はいつも怒られてました。そうしたら音楽の美人教師だった野畑百合先生と結婚しちゃった。「オイ、オイ」ってなもんですよ。あとは水野正先生ですかね。家が近所で、母親とも知り合いで、学校に呼び出された時には、よく中に入ってくれたらしいです。自分は知らなかったんですけどね。
―趣味はスポーツということですが、他の運 動部との関わりなどは如何でしたか。
山本 うしお25号で紹介されたテニスの内山勝さん(S37年卒・第13回生)は中学からの先輩で、家も近所なので今でもお付き合いしてます。一度、市のイベントの時に、伊達公子さんを連れてきてほしいと頼んだら「伊達は無理だが、杉山愛なら」ということで、来てもらいました。そうしたら間もなくジャパン・オープンで優勝したり、ダブルスで世界一になりました。もう呼べないでしょうね。
―他はどうですか。
山本 同級生にサッカー部の徳永(正和)さんというのがいました。サッカー部の練習はよく手伝いましたよ。彼は慶大に行って、一年生でいきなり関東リーグの得点王になったほどの選手でした。ちょうど早大に釜本(邦茂)がいたので、早慶戦はよく観に行きました。
―00年の6月に、藤沢のグランドホテルで野 球部の創立50周年記念をやった時には来賓 としてお出で頂きましたが、野球部とはど うでしたか。
山本 私の代は小野(善蔵)というのがキャプテンでキャッチャーでしたけど、あまり強くなかった気がしますね。
―でも3回戦までいって、法政二高に2―3 で敗れたんですよ。
山本 覚えてます。川崎球場に応援に行きましたもの。法政二には南海の監督だった鶴岡(一人)さんの息子さん(泰)がいて、ピッチャーが日本人として初のメジャーリーガーとしてSFジャイアンツに行った村上(雅則)です。二塁への牽制球が悪送球になって、前進守備だった鶴岡の頭の上を越えて外野フェンスまで行ってしまって2点入った。そうしたら法政二の連中、完全に浮き足立ちました。やはり高校生なんだと思いましたね。
―6月に亡くなった間宮(田中)莞爾さん(S36
年卒・第12回生)も野球部出身で、藤沢市役 所勤務でしたよね。
山本 ハイ、そうです。2年先輩でした。市の三役の一つである収入役として活躍されました。
―高校時代に話を戻します。行事には積極的 に参加されましたか。
山本 体育祭、特に仮装行列は一生懸命やりましたね。記憶が正しければ、二年の時は優勝。三年の時は次郎長富士≠やって、女生徒が茶摘み娘。チャッ切り節から、当時流行していたチャールストンに変わる踊りをやったんです。ところが、先日、北野武監督の「座頭市」を観たら、ラストシーンが似ていて、当時の仮装行列を思い出しました。北野監督は私たちと同年代なので、同じような発想をしたのではないでしょうか。
―引退後の生活設計は立ててますか。
山本 まだ考えてないですね。当分はノンビリしたいと思っています。
―本日はお忙しい中、時間を割い て頂きありがとうございました。 残りの任期を全うして下さい。
山本 こちらこそ、ありがとうございました。
[プロフィール]
山 本 捷 雄
(やまもと かつお)
1944年(S19年)中国・上海市で生まれる。
69年(S44年)青山学院大学法学部卒、
75年(S50年)から91年(H3年)まで藤沢市議会議員(4期)、87年から2年間市議会議長を務める。その間、関東市議会議長会々長も務める。
96年(H8年)から藤沢市長で現在3期目。
全国市長会副会長、神奈川県市長会々長などの要職を兼ねる。
趣味は読書とスポーツ観戦。
鎌高卒業は63年(S38年)の第14回生。
(インタビューは6月14日、市長室にて)